貧困国の支援・開発協力のボトルネック:主権国家とリベラル理念のジレンマ

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アフリカなど、貧困国の開発協力に関して、ここのところブログを書いてきた。

実は援助が効果的どうかを議論する以前に、知っておくべきボトルネックがある。

それは、主権国家体制とリベラルな理念という、国際関係において大切な話だ。

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この話は以前、慶應義塾大学の田所先生のお話で改めて勉強した部分が多いのだが、

現在の国際関係では、主権の相互承認というものがある。

つまり国家はそれぞれ独立しており、最低限の国家間協力は、主権の及ぶ範囲を承認するというものである。

主権の相互承認の発端はヨーロッパでの宗教戦争だ。

カトリックとプロテスタントでどちらが正しいかは答えが出ない問題。

そこで、国境で切ることになった。

主権の相互承認は、いろんな国が共存するためのルールであって、一番合意しやすい共存のためのルールだ。

国際社会に色んなタイプの国があればあるほど、共存ということが重要になる。

 

現在でいえば、国際社会でイスラム国を国として認める認めない という議論があった。

この問題は、これを国として認めてしまうことで、彼らの領土内!?における主権を、国際社会として認めてしまっていいのか、という話になる。

 

一方で、極度の貧困はかわいそうだ。

ひどい病気の蔓延はどうにかしたい。

そういった、リベラルな原則(人間は平等である、などの普遍主義的な話)は国境を認めない話だ。

例えば国連の人道支援というのは国境を越えたものであるというのが一般的認識であり、これがリベラルな原則だ。

 

他の国に行って開発協力をしようとするとき、このリベラルの発想と、ネーションステートとしての主権国家は必ずしもマッチしない。

開発の世界ではリベラルな原理が用いられるが、実際の世界はそうではない。

主権の原則とどう折り合いをつけるのかが、難しいところだ。

 

先日のユニセフの平林さんのお話では、人道支援に関しては、例え北朝鮮でも効果的に行われているという話があった。

この病気が蔓延しているから、その対策でワクチンをあげましょう。

そんな人道支援なら良いのかもしれない。

 

しかし、ここには責任の範囲に関する問題もある。

外から手を差し伸べた場合に、好ましく効果が出た場合に誰が責任をとるのか?とれるのか?

例えば、現地政府の要請に基づく支援をして、好ましくない効果が出た場合は誰が責任をとるのか?

本当はクーデターでも起こって転覆したほうがよい悪い政府があったとしよう。

これが食料援助や健康援助で長続きしてしまったら、誰が責任をとるのか?

援助額やインパクトが大きくなればなるほど、これに対する責任が大きくなる。

 

地球市民として、グローバルなことに全ての人々が責任があるという思想は立派だ。

しかし、日本の一地域の飢饉とアフリカでの飢饉について、東京に住んでいる私達が同じように責任を持つことは難しい。

リベラルな思想は、自分たちが責任を持てないエリア(違う主権国家体制の内部)に対して、踏み込むことだ。

ここに主権国家体制とリベラル理念のジレンマがある。

 

人道援助の原則は、思想や理念を入れないことかもしれない。

そこで困っていた人がいたら助けるのが、基本だ。

しかしそれによって、ひどい独裁政治が延命し、結果的により多くの人の命が失われるリスクを考えたら、いつでもどこでもリベラルな思想を追求することが正しいというのは、あまりにも単純な発想だ。 

善意に基づいた行為でも、結果がコントロールできない場合が多くあるのだ。

 

アリヴェデルチッ!